2007年05月16日
ヤップ島の話
何処から、どこを経由してここ(ヤップ)に入ったか今はもう忘れてしまった。
当時乱雑に書いていた日記が残っていて(私にしては奇跡的)読めない暗号を解読するが如く清書してみる。
この時は前年の1988年の暮れにパラオに入り、知り合いのダイビングショップを手伝った後に周辺の島々へ旅した時のものだ。
ヤップ島の他にグアム トラック ポナペ(ポンペイ)等へ行ったが、ここでは最も想い出深い、そして最も長く滞在したヤップ島の話をしよう。
多少文章の手直しをして、また思い出しながら追加もした。
1989年 2月4日
入国手続きは粗末なバラックの小屋に腰高ほどの金網は張られ係りの人の所だけ(入国管理官)その金網が切り取られている。
といった粗末な造りだった。
(旅は意外性を楽しむためにあるのかも知れない それを期待しているとすれば、ここは最も望んでいる島なのかも知れないと思えてくる。
日記には書かなかったが、わくわくして何となく長居しそうだなーという予感のようなものを感じた。)
飛行場に着いて、さーて 何処へ行こうかなーと思案していたら、やっぱり期待どおり日本語で話しかけてきた。
「ダイビングするの?」 「ハイ!」「私がやっているから車に乗れ」(これがタマグさんとの初めての出会いだった。) 言われるままに用意されている車で、その人が経営するホテルへ (こんな感じで運を天に任せるように全く無用心にも乗る事が、ままある。
大丈夫なの?と心配する人もいるが、そういう人は前もって予約してホテルに泊まればいいのである。)
ここはまだ女性でも堂々と胸を出している。(それまでトラックやパラオなどとは全く違った。)
男はフンドシのような物を巻き、それは大人と子供の同じスタイルのようだ。
若い女性の胸はさすがに張りがあって美しい!
どうも視線が胸にいってしまう。(もちろんTシャツを着ている人も多い、最近はどうか分からないが私が訪れた頃はちょうど裸の文化が残されていたぎりぎりの頃だったのでないかと思う。)
慣れるまで暫くかかりそうだ。 夕方太陽が傾いてから散歩に出かけた。
二人の若い男が丸い石みたいなものを削っていた。
思い切って柵とも言えない柵を乗り越えて中へ入った。
金切りノコで水を流しながらサンゴを削っていた。3~4センチ位のところで切り 削った角を丸くして(おでんに使う大根のように)もう一方では真ん中に穴を開けていた。
何を作っているのだろう? 英語の出来ない私は、ただ申し訳なさそうにニコニコしながらやはり粘り強く完成まで見ようと頑張ったが最後まで分からなかった。
写真に収めようとカメラを構えたら別なところからヤジがとんできた。何やらおかしな雰囲気になってきたので逃げるように、その場を離れた。
(石化は隣りの島から切り出して舟で運んだと言われているが、たぶん何に使うのか分からないが、この作り物は石貨だったのではないだろうか? 後で知ったが、そこはヤップの刑務所だった。
中には自分の親兄弟を殺したという人もいるという話を、だいぶ後になって聞いた。
散歩の途中 店を覗いた 多分ここが、この島の唯一の店なのだろう。
意外と日本のものが売られている事に驚く、サッポロ一番 味噌 しょうゆ ラーメン カラムーチョ カルビーカッパエビセン 耳栓 東芝水中ライト オレンジつぶつぶ なびすこ 鎌 フジカラーフィイルム Tシャツ(日本製) 靴下 爪きり など等(下らない物を書いていたもんだ
当時はそれでも日本製がここまで来ている事に驚いていたのかも知れない)
ヤップに来て3日目にしてやっとダイビングが出来た。
昨日はボートに乗ってから大雨が降り出し、そして中止に、結局ホテルを出てドシャブリの雨に打たれ、ずぶ濡れになって帰って来ただけだった。
1ダイブ目のポイント名は忘れてしまった。忘れても一向に構わないポイントだった。
というより全てを忘れたいとさえ思う。 それほど何の変哲も無く語るべく何事も浮かんでこない!
海から上がって 「ノーグッド」 と静かに、だけどきっちり聞こえるように伝えた。
二本目はマンタウエイという名前が付いているポイントで必ず数十匹ものマンタが見れるという。
本当だろうか?
数十匹という数まではいらないから、せめてカメラに収める位の近さで、見たいものだ。
さてポイントに着くと、さすがにマンタの出そうなところで20メートル位の水路にあまりの潮の速さにアンカーを打った船のロープがびんびんに張っている。
小さな潮目が出来ていてリーフの外まで続いている。
その線の内側は鏡のような水面となり、ダイビングはこの潮が収まるのを待ってから
ということになった。潮が落ち着くのを待つと言っても、そう簡単に収まるものだろうか?
と思っていると、スタッフはゆっくりと寝床の準備を始めた。
潮の満ち引きは最初から分かっているんじゃないのか と突っ込みたくなるのを堪え
とりあえず騒いでも怒っても始まらないので、この流れに任せ私も最も居心地がいい所を見つけて寝る事とした。
暫くして太陽が西に傾くと、この居心地がいい場所は太陽の光を浴びる最も過酷な場所となった。
なるほど、なぜこんないい場所をわざわざ空けていたのかが合点がいった。
今までのサービスを考えれば、お客のために、わざわざ空けていたとは到底思えなかったからだ。 2時間ぐらいしてからだろうか? これからここでダイビングする事すら忘れかけようとしていた頃、やっと合図があった。
海を見ると少しは治まっているようには思えるが、それでも相当に流れている。 セッテングが終わりガイドの合図を待っていたら「先にどうぞ」だって 何処までふざけたガイドなのだ と思えるのだが、逆に何から何まで思い通りに支持したがるガイドよりは、まだましだ。
ほんの少し前までは私もパラオではガイドをしていた。
私はブルーコーナーとペリリューが好きだったから私の船に乗るお客は否応なくそっちの方となる。
基本的にポイントの説明をしない。
いつかそんな私に引率していたインストラクターがポイントの情報を説明してもらえますか?との質問に
「えーと 入ってのお楽しみ!と言ってたら誰も笑ってくれなかった。
実をいうとポイントの名前も知らなければ、どういう経路で行くのか決めていないのだ。
そう考えると、私もここのガイドとそう代わり映えがしないなーとも思えてくる。
ボートからブイの付いたロープを流しそれを伝って、そこから一気に7~8メートルぐらいの深さまで潜る。
まず私が最初にエントリーして、それからヨットで世界を航海しているというベルギー人が入ってきた。
とりあえず動き回っても心配するだろうと下で待っていたら、何時までも経っても来ない
もしかしたら、あの能無しガイド 船の上でのんびり昼寝でもしているんではないだろうか
エアーももったいないし、気にしないで勝手に走り回り事にした。
昨日の雨でやはり、だいぶ濁っていた。
が、もしマンタが現れたら見れるだろうと思って周りを見回したら、いた 前から一匹 後ろにも横には二匹はいる
潮に向かって進むと、ますます密度が濃くなった。
濁った水族館に入ったらこんな感じだろうなーてな感じだった。
暫くしたら驚いた事に、さっきすれ違ったベルギー人はマンタの尻尾につかまって遊んだり口に手を入れようとしている。
危害を加えない、おとなしいマンタとはいえ、おいおいやりすぎじゃないのか?
それ以上に、ここのポイントの素晴らしいところはマンタの他にもマダラトビエイ ナポレオン ハタなど大型の魚が見られる事だ。
ガイドは最低なのだがポイントは超一流 という事だけは確かなようだ。
・ ダイビング船は珍しい大型のアルミ製 アメリカからは運んで来たという。
・ ダイビングフィー 65ドル
・ホテル ライビュー イン シングル 28ドル
・この他のホテルは エサ ホテル
ヤップでの数ヶ月の暮らしは、ほとんど忘れてしまったが、、、
この後 周辺の島々を渡り歩き またヤップに戻って来た。
この時からタマグさんの家に泊めてもらい宿と食事代は夜の獲物とりでお返しする事となる。
トラックでは相沢さんに大変お世話になった 相沢さんの島というところにも連れていってもらい何から何までお世話になり良くしてもらった。
よく信じられないぐらい大きなマングローブガニをスタッフに取ってこらせて大皿に出してくれた。
単なる旅行者に本当によくしてもらった。
これを書きながら私は、まだお礼もしていない事に気が付いた。
そんな島々の中でもヤップ島の日々は楽しい事の連続だった。
中でもタマグさんと夜の海に出るのが最も楽しみの一つだった。
車で30分ほどのところの小さな川べりにタマグさんのカヌーが繋がれてある。
網を積みゆっくりと川を下って海へ出る 上を覆っていた茂みから一気に星空の一面が開ける。
しばらくすると川の濁りは消え月明かりでも透明な浅い海底が見えてくる。
何処へ行くという明確な方向という事は無くリーフに向かって進む
いつも私は前に乗ってタマグさんが棒を押し出して前に進む たまに暇を持て余す時だけ櫂を取り出し漕いだりした。
浅いリーフではカヌーが底につかえ二人で引っ張って前に進む事もあった。
数十メートル先で波が砕けている。 リーフが近い事が分かる。
この辺から網を下ろしリーフに沿って平衡に刺していく 終わったら、いったんカヌーに戻り一眠りしながら潮待ちをする。
頃合いをみて、ゆっくりと網の先から掛かった魚を外していく。
一直線に伸びる網に浮きは、ところどころで浮いたり沈んだりしている。
大きい魚になると水しぶきが上がっているところもある。そういう時は逃げられないようにまず走って捕まえに行く と言うのは表向きで魚は逃げられないから、もがいているのであって、私は早くその大きな魚を見たいのが、その理由だった。
大量の時は浮きがほとんど沈んで見えなくなる。
こうして何か掛かっているのか海の上を歩くのが何より楽しい。
よく小さな(60センチ~70センチ位)サメが群れで掛かかった。
もちろんこれも立派な食料になる。潮を待つ間 私はよく素もぐりで魚突きをした。
リーフの切れ目に沿って寝ている魚を突くやり方だ。
夢中になって何度もカヌーの位置を見失いそうになる。
仕事を終えたタマグさんを待たせた事もあった が、一度も怒られたことはなかった。
漁を終え陸に向かう時ヤップの山々の稜線が夜空の星にくっきりと線を描く、元来た場所の方向が分からずタマグさんに川はどこ?と聞いたら「あっち」と陸に顔を向けた。
きっとタマグさんも、それ以上の事は答えられないのだろう。そしてその情報だけで十分なのだから、何かを目印にしている様子は無かった。そして方向を誤った事は一度も無かった。
(予断になるが星や自然条件を利用して航海するサタワル島の話があるが、
方向を定める方法としては、それだけに限らず 「なぜ?」 と言って聞かれたら説明できないが何となく「あっち」、という「感」というようなものも無視できない大きな要素なのではないだろうか?
何かをヒントとして本能が察知しているのかも知れないが、むしろ星や波や鳥はそれを再確認するためのもののようなきさえする。)
帰りはいつも12時をこえる。家に着くと車から自分で食えるだけの好きな魚を選んで降ろす、後はホテルのお客様用となる。
私は刺身にして旨いものを中心にハタやアジ類 タコを優先でとる。
エビはホテルでも人気なのでめったにチョイスする事がない。
欲しがっている事を知っているタマグさんはそれを察してお客が少ないときは分けてくれる。
この漁は潮を利用して行うためいつも出来るという訳ではない、魚が必要な時は船を出して夜釣りに行く、網の漁も日によって採れる時と採れないときが激しいが、この釣りはもっと激しい、全く坊主の時もあれば、どうしちゃったんだろう?と思うぐらい釣れる時もある。
釣りも楽しいが私は網漁の方が潜れるし好きだった。 今でもやっているのだろうか?
ある日散歩の途中 道端で休んでいるおばさんがいた、ここから先は家はなさそうだが何処に行くのだろうと思い、「おばさんは何処から来ているの?そして何処に行くの」
教えてもらったところで、その場所など分かる、はずはないのだけれども、、
(おばさんは英語が出来ない、かといって私も出来ない!ではどうして、こんなやりとりが出来たのか?
実は今もって不思議だ、もしかしたら日本語が話せたかも知れないが、私の記憶では、しっかり意志の疎通は出来ていたと思っている。
たまにあれは夢だったのだろうか?と思う時がある。それほど不思議な体験だった。)
家を聞いたのをきっかけに今日家に来ないか?と誘われた。
喜んで行く事にした。
今までホテルとタマグさんの家でしか泊まった事が無かった。
タマグさんの持ち家は数件あったが、どれもヤップの中では比較的裕福な家で私が泊まっている家も椰子で葺いた家では無かった。
(当時ヤップの一般的な家の屋根はトタン屋根だったと思う。)
出来たら田舎の一般的な家に行って、泊まってみたいと思っていたから、いい機会が巡ってきたと思い、ホイホイと着いていった。
やはりここから先は建物はない、いつかこの道を散歩がてら、だいぶ先まで行った事があったが、確か家らしきものは無かったと思う。
それでもゆっくりとだが、どんどん奥へ行く、何度か、わき道に入ったため帰り私一人では無理そうだ。
明日はこのおばさんは町に来るんだろうか?
そんな心配をしながらも着いていく、日がとっくに暮れ、道らしきものも、すでに無くなり、
ほとんど獣道状態のところを延々と進む、そして進む、この頃になると通常の暮らしと、そうした家に泊まって見たい という好奇心も消え去り着いて来た事を後悔していた。
いったい私は何処まで連れて行かれるのだろう。
今更 帰る訳にもいかず、帰りたい!という言葉もはけず、いつもなら今頃は熟睡している頃だろうなー
もしかしたらタマグさんが夜釣りに誘ってくれたかも知れないなー
ところで私は無事に帰れるんだろうか?
一緒に歩いてから、まだ一度も休んでいないけど私と会った時は疲れたように休んでいたのに
こんなに元気なら休む必要が無かったのではないだろうか、日が高いうちに出かけていたら、私とも会う事も無かったのに。
ところでおばさんは、この道を本当に分かって歩いているのだろうか?
急に不安になった。
もしかしたら迷っているという可能性はないのか、「まだなの?」 と聞くと
「もう着いた」という だが足を止めない、「もう少し」から1時間は歩き 「すぐそこ」 から1時間歩き 今度は 「着いた」と 確かに言葉としては近づいているようだが、どれほど歩いたのか今はもう忘れてしまった。
日が暮れてから、とにかく延々と歩きに歩いた。
千里の道も一歩から、そして遂に目指す家にたどり着いた。
おばさんは迷っていなかったし、少し頭がおかしな人でも無かった。(疑ってごめん)
生まれた環境の違いから少し距離の認識に違いがあった というだけの事だ。
家は確かにあるようだが暗くて良く見えない。
直ぐに今夜の私の泊まる場所へ案内された、家から少し離れたところに鳥小屋を大きくしたような、竹で出来た大きな椅子のような造りのところだった。
どんなところでも平気で野宿できる私にとっては、お構いなしなのだが、
・・・ほんの少しだけ期待が外れた。
南国と言っても夜は肌寒い何か上から、はおるものが欲しいところだが、おばさんも、さすがに眠いらしく、さっさと家に入っていった。
今日だけは頼むから雨が降らないでくれ と願いつつ、何をする気力のもなく、疲れた体を丸めて寝るしかなかった。
朝 目が覚めると、なぜか探検もしないでさっさと帰る事にした。
距離が距離だけに早く帰らなければならないと思ったのかも知れないし、早く帰れ!と
本能が叫んでいたのかもしれない、その時おばさんが、いたのか誰かがいたのかは記憶にない。
何となく早く帰りたくなって、来た道をそのまま引き返した。
ふたてに別れた道にちょっとは迷ったような気もするが、あまり記憶に無いところを思えば大したことは事が無かったかも知れない。
明るいと獣道はちゃんと人が歩けるほどの道だったように思う。
今改めて思い返しても、やはり不思議な時間だった。
一人で山道を歩くのが寂しくて誰か一緒に行ってくれる人を待っていたのかも知れないし、村の生活を本当に見せたいと思って案内したのかも知れない。
人間の姿に化けた狐だったのだろうか?
私の田舎にはありそうな話だが、ここには狐はいないし、狸もいないのだ。
あの後あそこに滞在していたら、どんなだったろうと思ったりする。
私の旅は事前にホテル等の予約はとらない場合が多い、行き当たりばったり行動するスタイルは、だから帰りたくなったら帰り居心地が良ければ、まだしばらくそこに留まる。
もしかしたらそんな旅が一見危険を伴うように感じるが最も安全な旅なのかも知れないと思えてくる。
たった3ヶ月のヤップでの生活だったが濃厚にいろいろ楽しい遊びをさせてもらった。
ミクロネシアにはその名のとおり多くの島が存在する。
そう遠くない昔、その多くの島に日本軍が駐留した。平和に住む人達を踏みにじり、よその国どうしが、ここを戦場とした。
その残骸が至るところに放置されている。
これらを見る度に、一方のその国に生まれた人間として後ろめたさを感じる。
こうした歴史を背負っているにも関わらず、ここの人達は心から優しく接してくれた。
70歳を超えた人は、ほとんど日本語が話せた。
日本統治時代は日本語教育を受けていたからだ。
ここに来た兵士も、きっと自分の意思で来た人は一人もいないだろう。 と思う。
当時はさらに過酷な環境だったに違いない。
そんな不本意な人生を送った日本兵のためにも、この言葉でヤップの話を終わるとしよう。
ある日タマグさんと二人きりになったとき、どうしても聞いてみたいと思っていた事を質問した事がある。
「昔大変な思いをさせられたのに何でそんなに優しくなれるの?」
タマグさんは、ゆっくりと回想するように話してくれた。
「日本人には何度も思いっきりぶん殴られた。
日本語が覚えられないと、ぶん殴られて、学校へ来ないと、またぶん殴られた。
何でも真剣に教えてくれた。 だけど日本人と現地人の境は無かった。
それによって字は書けるようになったし計算の出来るようになった。 それはいい事だ。」
タマグさんが少年だった頃 ある日本人に、とてもよくしてもらったという、厳しかったが何でも教えてくれて可愛がってくれた。
その思い出が今も強く残っているようだ。
アメリカ統治時代の話は話さなかったし聞かなかった。
私はそれだけで充分だった。

1989年 「ヤップディ」の一コマ
森
当時乱雑に書いていた日記が残っていて(私にしては奇跡的)読めない暗号を解読するが如く清書してみる。
この時は前年の1988年の暮れにパラオに入り、知り合いのダイビングショップを手伝った後に周辺の島々へ旅した時のものだ。
ヤップ島の他にグアム トラック ポナペ(ポンペイ)等へ行ったが、ここでは最も想い出深い、そして最も長く滞在したヤップ島の話をしよう。
多少文章の手直しをして、また思い出しながら追加もした。
1989年 2月4日
入国手続きは粗末なバラックの小屋に腰高ほどの金網は張られ係りの人の所だけ(入国管理官)その金網が切り取られている。
といった粗末な造りだった。
(旅は意外性を楽しむためにあるのかも知れない それを期待しているとすれば、ここは最も望んでいる島なのかも知れないと思えてくる。
日記には書かなかったが、わくわくして何となく長居しそうだなーという予感のようなものを感じた。)
飛行場に着いて、さーて 何処へ行こうかなーと思案していたら、やっぱり期待どおり日本語で話しかけてきた。
「ダイビングするの?」 「ハイ!」「私がやっているから車に乗れ」(これがタマグさんとの初めての出会いだった。) 言われるままに用意されている車で、その人が経営するホテルへ (こんな感じで運を天に任せるように全く無用心にも乗る事が、ままある。
大丈夫なの?と心配する人もいるが、そういう人は前もって予約してホテルに泊まればいいのである。)
ここはまだ女性でも堂々と胸を出している。(それまでトラックやパラオなどとは全く違った。)
男はフンドシのような物を巻き、それは大人と子供の同じスタイルのようだ。
若い女性の胸はさすがに張りがあって美しい!
どうも視線が胸にいってしまう。(もちろんTシャツを着ている人も多い、最近はどうか分からないが私が訪れた頃はちょうど裸の文化が残されていたぎりぎりの頃だったのでないかと思う。)
慣れるまで暫くかかりそうだ。 夕方太陽が傾いてから散歩に出かけた。
二人の若い男が丸い石みたいなものを削っていた。
思い切って柵とも言えない柵を乗り越えて中へ入った。
金切りノコで水を流しながらサンゴを削っていた。3~4センチ位のところで切り 削った角を丸くして(おでんに使う大根のように)もう一方では真ん中に穴を開けていた。
何を作っているのだろう? 英語の出来ない私は、ただ申し訳なさそうにニコニコしながらやはり粘り強く完成まで見ようと頑張ったが最後まで分からなかった。
写真に収めようとカメラを構えたら別なところからヤジがとんできた。何やらおかしな雰囲気になってきたので逃げるように、その場を離れた。
(石化は隣りの島から切り出して舟で運んだと言われているが、たぶん何に使うのか分からないが、この作り物は石貨だったのではないだろうか? 後で知ったが、そこはヤップの刑務所だった。
中には自分の親兄弟を殺したという人もいるという話を、だいぶ後になって聞いた。
散歩の途中 店を覗いた 多分ここが、この島の唯一の店なのだろう。
意外と日本のものが売られている事に驚く、サッポロ一番 味噌 しょうゆ ラーメン カラムーチョ カルビーカッパエビセン 耳栓 東芝水中ライト オレンジつぶつぶ なびすこ 鎌 フジカラーフィイルム Tシャツ(日本製) 靴下 爪きり など等(下らない物を書いていたもんだ
当時はそれでも日本製がここまで来ている事に驚いていたのかも知れない)
ヤップに来て3日目にしてやっとダイビングが出来た。
昨日はボートに乗ってから大雨が降り出し、そして中止に、結局ホテルを出てドシャブリの雨に打たれ、ずぶ濡れになって帰って来ただけだった。
1ダイブ目のポイント名は忘れてしまった。忘れても一向に構わないポイントだった。
というより全てを忘れたいとさえ思う。 それほど何の変哲も無く語るべく何事も浮かんでこない!
海から上がって 「ノーグッド」 と静かに、だけどきっちり聞こえるように伝えた。
二本目はマンタウエイという名前が付いているポイントで必ず数十匹ものマンタが見れるという。
本当だろうか?
数十匹という数まではいらないから、せめてカメラに収める位の近さで、見たいものだ。
さてポイントに着くと、さすがにマンタの出そうなところで20メートル位の水路にあまりの潮の速さにアンカーを打った船のロープがびんびんに張っている。
小さな潮目が出来ていてリーフの外まで続いている。
その線の内側は鏡のような水面となり、ダイビングはこの潮が収まるのを待ってから
ということになった。潮が落ち着くのを待つと言っても、そう簡単に収まるものだろうか?
と思っていると、スタッフはゆっくりと寝床の準備を始めた。
潮の満ち引きは最初から分かっているんじゃないのか と突っ込みたくなるのを堪え
とりあえず騒いでも怒っても始まらないので、この流れに任せ私も最も居心地がいい所を見つけて寝る事とした。
暫くして太陽が西に傾くと、この居心地がいい場所は太陽の光を浴びる最も過酷な場所となった。
なるほど、なぜこんないい場所をわざわざ空けていたのかが合点がいった。
今までのサービスを考えれば、お客のために、わざわざ空けていたとは到底思えなかったからだ。 2時間ぐらいしてからだろうか? これからここでダイビングする事すら忘れかけようとしていた頃、やっと合図があった。
海を見ると少しは治まっているようには思えるが、それでも相当に流れている。 セッテングが終わりガイドの合図を待っていたら「先にどうぞ」だって 何処までふざけたガイドなのだ と思えるのだが、逆に何から何まで思い通りに支持したがるガイドよりは、まだましだ。
ほんの少し前までは私もパラオではガイドをしていた。
私はブルーコーナーとペリリューが好きだったから私の船に乗るお客は否応なくそっちの方となる。
基本的にポイントの説明をしない。
いつかそんな私に引率していたインストラクターがポイントの情報を説明してもらえますか?との質問に
「えーと 入ってのお楽しみ!と言ってたら誰も笑ってくれなかった。
実をいうとポイントの名前も知らなければ、どういう経路で行くのか決めていないのだ。
そう考えると、私もここのガイドとそう代わり映えがしないなーとも思えてくる。
ボートからブイの付いたロープを流しそれを伝って、そこから一気に7~8メートルぐらいの深さまで潜る。
まず私が最初にエントリーして、それからヨットで世界を航海しているというベルギー人が入ってきた。
とりあえず動き回っても心配するだろうと下で待っていたら、何時までも経っても来ない
もしかしたら、あの能無しガイド 船の上でのんびり昼寝でもしているんではないだろうか
エアーももったいないし、気にしないで勝手に走り回り事にした。
昨日の雨でやはり、だいぶ濁っていた。
が、もしマンタが現れたら見れるだろうと思って周りを見回したら、いた 前から一匹 後ろにも横には二匹はいる
潮に向かって進むと、ますます密度が濃くなった。
濁った水族館に入ったらこんな感じだろうなーてな感じだった。
暫くしたら驚いた事に、さっきすれ違ったベルギー人はマンタの尻尾につかまって遊んだり口に手を入れようとしている。
危害を加えない、おとなしいマンタとはいえ、おいおいやりすぎじゃないのか?
それ以上に、ここのポイントの素晴らしいところはマンタの他にもマダラトビエイ ナポレオン ハタなど大型の魚が見られる事だ。
ガイドは最低なのだがポイントは超一流 という事だけは確かなようだ。
・ ダイビング船は珍しい大型のアルミ製 アメリカからは運んで来たという。
・ ダイビングフィー 65ドル
・ホテル ライビュー イン シングル 28ドル
・この他のホテルは エサ ホテル
ヤップでの数ヶ月の暮らしは、ほとんど忘れてしまったが、、、
この後 周辺の島々を渡り歩き またヤップに戻って来た。
この時からタマグさんの家に泊めてもらい宿と食事代は夜の獲物とりでお返しする事となる。
トラックでは相沢さんに大変お世話になった 相沢さんの島というところにも連れていってもらい何から何までお世話になり良くしてもらった。
よく信じられないぐらい大きなマングローブガニをスタッフに取ってこらせて大皿に出してくれた。
単なる旅行者に本当によくしてもらった。
これを書きながら私は、まだお礼もしていない事に気が付いた。
そんな島々の中でもヤップ島の日々は楽しい事の連続だった。
中でもタマグさんと夜の海に出るのが最も楽しみの一つだった。
車で30分ほどのところの小さな川べりにタマグさんのカヌーが繋がれてある。
網を積みゆっくりと川を下って海へ出る 上を覆っていた茂みから一気に星空の一面が開ける。
しばらくすると川の濁りは消え月明かりでも透明な浅い海底が見えてくる。
何処へ行くという明確な方向という事は無くリーフに向かって進む
いつも私は前に乗ってタマグさんが棒を押し出して前に進む たまに暇を持て余す時だけ櫂を取り出し漕いだりした。
浅いリーフではカヌーが底につかえ二人で引っ張って前に進む事もあった。
数十メートル先で波が砕けている。 リーフが近い事が分かる。
この辺から網を下ろしリーフに沿って平衡に刺していく 終わったら、いったんカヌーに戻り一眠りしながら潮待ちをする。
頃合いをみて、ゆっくりと網の先から掛かった魚を外していく。
一直線に伸びる網に浮きは、ところどころで浮いたり沈んだりしている。
大きい魚になると水しぶきが上がっているところもある。そういう時は逃げられないようにまず走って捕まえに行く と言うのは表向きで魚は逃げられないから、もがいているのであって、私は早くその大きな魚を見たいのが、その理由だった。
大量の時は浮きがほとんど沈んで見えなくなる。
こうして何か掛かっているのか海の上を歩くのが何より楽しい。
よく小さな(60センチ~70センチ位)サメが群れで掛かかった。
もちろんこれも立派な食料になる。潮を待つ間 私はよく素もぐりで魚突きをした。
リーフの切れ目に沿って寝ている魚を突くやり方だ。
夢中になって何度もカヌーの位置を見失いそうになる。
仕事を終えたタマグさんを待たせた事もあった が、一度も怒られたことはなかった。
漁を終え陸に向かう時ヤップの山々の稜線が夜空の星にくっきりと線を描く、元来た場所の方向が分からずタマグさんに川はどこ?と聞いたら「あっち」と陸に顔を向けた。
きっとタマグさんも、それ以上の事は答えられないのだろう。そしてその情報だけで十分なのだから、何かを目印にしている様子は無かった。そして方向を誤った事は一度も無かった。
(予断になるが星や自然条件を利用して航海するサタワル島の話があるが、
方向を定める方法としては、それだけに限らず 「なぜ?」 と言って聞かれたら説明できないが何となく「あっち」、という「感」というようなものも無視できない大きな要素なのではないだろうか?
何かをヒントとして本能が察知しているのかも知れないが、むしろ星や波や鳥はそれを再確認するためのもののようなきさえする。)
帰りはいつも12時をこえる。家に着くと車から自分で食えるだけの好きな魚を選んで降ろす、後はホテルのお客様用となる。
私は刺身にして旨いものを中心にハタやアジ類 タコを優先でとる。
エビはホテルでも人気なのでめったにチョイスする事がない。
欲しがっている事を知っているタマグさんはそれを察してお客が少ないときは分けてくれる。
この漁は潮を利用して行うためいつも出来るという訳ではない、魚が必要な時は船を出して夜釣りに行く、網の漁も日によって採れる時と採れないときが激しいが、この釣りはもっと激しい、全く坊主の時もあれば、どうしちゃったんだろう?と思うぐらい釣れる時もある。
釣りも楽しいが私は網漁の方が潜れるし好きだった。 今でもやっているのだろうか?
ある日散歩の途中 道端で休んでいるおばさんがいた、ここから先は家はなさそうだが何処に行くのだろうと思い、「おばさんは何処から来ているの?そして何処に行くの」
教えてもらったところで、その場所など分かる、はずはないのだけれども、、
(おばさんは英語が出来ない、かといって私も出来ない!ではどうして、こんなやりとりが出来たのか?
実は今もって不思議だ、もしかしたら日本語が話せたかも知れないが、私の記憶では、しっかり意志の疎通は出来ていたと思っている。
たまにあれは夢だったのだろうか?と思う時がある。それほど不思議な体験だった。)
家を聞いたのをきっかけに今日家に来ないか?と誘われた。
喜んで行く事にした。
今までホテルとタマグさんの家でしか泊まった事が無かった。
タマグさんの持ち家は数件あったが、どれもヤップの中では比較的裕福な家で私が泊まっている家も椰子で葺いた家では無かった。
(当時ヤップの一般的な家の屋根はトタン屋根だったと思う。)
出来たら田舎の一般的な家に行って、泊まってみたいと思っていたから、いい機会が巡ってきたと思い、ホイホイと着いていった。
やはりここから先は建物はない、いつかこの道を散歩がてら、だいぶ先まで行った事があったが、確か家らしきものは無かったと思う。
それでもゆっくりとだが、どんどん奥へ行く、何度か、わき道に入ったため帰り私一人では無理そうだ。
明日はこのおばさんは町に来るんだろうか?
そんな心配をしながらも着いていく、日がとっくに暮れ、道らしきものも、すでに無くなり、
ほとんど獣道状態のところを延々と進む、そして進む、この頃になると通常の暮らしと、そうした家に泊まって見たい という好奇心も消え去り着いて来た事を後悔していた。
いったい私は何処まで連れて行かれるのだろう。
今更 帰る訳にもいかず、帰りたい!という言葉もはけず、いつもなら今頃は熟睡している頃だろうなー
もしかしたらタマグさんが夜釣りに誘ってくれたかも知れないなー
ところで私は無事に帰れるんだろうか?
一緒に歩いてから、まだ一度も休んでいないけど私と会った時は疲れたように休んでいたのに
こんなに元気なら休む必要が無かったのではないだろうか、日が高いうちに出かけていたら、私とも会う事も無かったのに。
ところでおばさんは、この道を本当に分かって歩いているのだろうか?
急に不安になった。
もしかしたら迷っているという可能性はないのか、「まだなの?」 と聞くと
「もう着いた」という だが足を止めない、「もう少し」から1時間は歩き 「すぐそこ」 から1時間歩き 今度は 「着いた」と 確かに言葉としては近づいているようだが、どれほど歩いたのか今はもう忘れてしまった。
日が暮れてから、とにかく延々と歩きに歩いた。
千里の道も一歩から、そして遂に目指す家にたどり着いた。
おばさんは迷っていなかったし、少し頭がおかしな人でも無かった。(疑ってごめん)
生まれた環境の違いから少し距離の認識に違いがあった というだけの事だ。
家は確かにあるようだが暗くて良く見えない。
直ぐに今夜の私の泊まる場所へ案内された、家から少し離れたところに鳥小屋を大きくしたような、竹で出来た大きな椅子のような造りのところだった。
どんなところでも平気で野宿できる私にとっては、お構いなしなのだが、
・・・ほんの少しだけ期待が外れた。
南国と言っても夜は肌寒い何か上から、はおるものが欲しいところだが、おばさんも、さすがに眠いらしく、さっさと家に入っていった。
今日だけは頼むから雨が降らないでくれ と願いつつ、何をする気力のもなく、疲れた体を丸めて寝るしかなかった。
朝 目が覚めると、なぜか探検もしないでさっさと帰る事にした。
距離が距離だけに早く帰らなければならないと思ったのかも知れないし、早く帰れ!と
本能が叫んでいたのかもしれない、その時おばさんが、いたのか誰かがいたのかは記憶にない。
何となく早く帰りたくなって、来た道をそのまま引き返した。
ふたてに別れた道にちょっとは迷ったような気もするが、あまり記憶に無いところを思えば大したことは事が無かったかも知れない。
明るいと獣道はちゃんと人が歩けるほどの道だったように思う。
今改めて思い返しても、やはり不思議な時間だった。
一人で山道を歩くのが寂しくて誰か一緒に行ってくれる人を待っていたのかも知れないし、村の生活を本当に見せたいと思って案内したのかも知れない。
人間の姿に化けた狐だったのだろうか?
私の田舎にはありそうな話だが、ここには狐はいないし、狸もいないのだ。
あの後あそこに滞在していたら、どんなだったろうと思ったりする。
私の旅は事前にホテル等の予約はとらない場合が多い、行き当たりばったり行動するスタイルは、だから帰りたくなったら帰り居心地が良ければ、まだしばらくそこに留まる。
もしかしたらそんな旅が一見危険を伴うように感じるが最も安全な旅なのかも知れないと思えてくる。
たった3ヶ月のヤップでの生活だったが濃厚にいろいろ楽しい遊びをさせてもらった。
ミクロネシアにはその名のとおり多くの島が存在する。
そう遠くない昔、その多くの島に日本軍が駐留した。平和に住む人達を踏みにじり、よその国どうしが、ここを戦場とした。
その残骸が至るところに放置されている。
これらを見る度に、一方のその国に生まれた人間として後ろめたさを感じる。
こうした歴史を背負っているにも関わらず、ここの人達は心から優しく接してくれた。
70歳を超えた人は、ほとんど日本語が話せた。
日本統治時代は日本語教育を受けていたからだ。
ここに来た兵士も、きっと自分の意思で来た人は一人もいないだろう。 と思う。
当時はさらに過酷な環境だったに違いない。
そんな不本意な人生を送った日本兵のためにも、この言葉でヤップの話を終わるとしよう。
ある日タマグさんと二人きりになったとき、どうしても聞いてみたいと思っていた事を質問した事がある。
「昔大変な思いをさせられたのに何でそんなに優しくなれるの?」
タマグさんは、ゆっくりと回想するように話してくれた。
「日本人には何度も思いっきりぶん殴られた。
日本語が覚えられないと、ぶん殴られて、学校へ来ないと、またぶん殴られた。
何でも真剣に教えてくれた。 だけど日本人と現地人の境は無かった。
それによって字は書けるようになったし計算の出来るようになった。 それはいい事だ。」
タマグさんが少年だった頃 ある日本人に、とてもよくしてもらったという、厳しかったが何でも教えてくれて可愛がってくれた。
その思い出が今も強く残っているようだ。
アメリカ統治時代の話は話さなかったし聞かなかった。
私はそれだけで充分だった。

1989年 「ヤップディ」の一コマ
森
2007年05月14日
サタワル島
サバニの事 旅の話 日記等 友人とユンタクのつもりで勝手に書いていきます。 見る人が多ければ頑張って書くでしょうが、少ないと怠けるのでちょくちょく覗いてくれるやりがいがあるのでよろしくです。
冒険手帳 のブログ名について
・ 小学から中学にかけて冒険という名の本を見ると宝物にでもあり付いたかのように
読みあさっていた。 当時青森県の田舎には情報を手に入れられるものも限られていた。 そんな中冒険手帳という本に出くわした。 この本には火のお越し方やロープの結び方に始まり日本に生息
する獣の足跡やその伝統的な捕獲方法まで解説されていた。
私はこの本を野山を駆け回るためのバイブルとしてどこに行くにも携え、そして実践していた。
そのため本はボロボロとなり何度もテープで補強しながら大事に大事にしていた。
仕掛けを造る絵がまた何とも魅力的で、ただ見ているだけでも幸せだった。
何毎にも直ぐに無くしてしまう、だらしのない私がこのバイブル本だけは肌身離さずいつも持ち歩いていた。 冒険手帳 今では、残念ながら私の手元にはないが、この名を聞くたびに山々を駆け巡りイタチや野ウサギ リスやムササビ キジやトビを夢中になって捕まえていた頃を想い出す。
(今思えば残酷な事をしていたと思うが、)階上岳の山を越え朽ちた炭焼き小屋の横に大きな欅の木があった。ここに来た証としてナイフで一本の傷を付けていた。二桁になろうかという頃、
いつの間にか遠のいている。 今も環境やフィールドは変わっても、たいして変わらない事をしているような気がする。 冒険手帳 幾つになっても心を擽る、もしかしたら原点なのかも知れない。
・ サタワルの話
・ ヤップの話
・ サバニ旅の話
・ ウンチの話
・ サバニの話
・ 海想の話
・ 危険が一杯
・ 小笠原 母島の話
・ 八丈島の話
・ 神津島の話
サタワルの話
今 ハワイから日本に向けてホクレア号が航海している。
初めの話は、それにちなんでサタワル島の話しを、、 といっても実は、ほとんど記憶に残っていないと言ってもいいのですが、、、 ホクレア号がハワイから第一の目標に定めたサタワルは
ナイノア船長に航海術を教えたミクロネシアでは唯一航海術が残っている島で感謝を込めて、
この船をプレゼントする事だったようだ。 (偉いなー)
1975年 チェチェメニ号がサタワルから沖縄に向けて航海した話を私は最近になって知った。
その時から、どこかで聞いた事がある島だなーと思っていたら実は私は今から18年前の
1989年2月にこの島にたまたま行っていた。 当時の日記が残っていてそれを見ると確かに
SATAWAL とあった。 当時の話を記憶のままに書いてみよう。
1988年の冬ダイビングの助っ人にパラオに向かった。 当時私は沖縄でダイビングインストラクターをしていた。冬は暇なのでパラオでダイビングショップを経営する知り合いからチケットと宿は準備する条件で2週間だけ手伝っていた。 それが終わると周辺の島々へ、ふらふらと出かけていたのだ。 グアム サイパン マジェロ コスラエ トラック ポナペ など等 中でも当時のヤップ島は
まだまだ開発がされていない魅力的な島だった。
ホテルを経営するタマグさんと仲良くなって、いつの間にかタマグさんの家に住むようになっていた。 よくタマグさんとホテルの出し物に使うため夜の海をカヌーで漕ぎ出し網を刺して抱えきれないほどの魚を取っていた。 網を刺し汐待ちをして魚がかかるまで舟の上で数時間待つ間
私はよく素もぐりに講じた。 時には刺し網より採ることもあり漁に行く時は必ず私を誘うようになった。何度か付いた魚をめぐってサメと取り合いになった事もあった。
私を連れて行く事によって漁は倍になり、私は私で何より楽しいひと時であった。
海から見る島影は人工物は何一つなく微かな明かりさえもない。
月夜の晩は持って行った懐中電灯を使う必要がないほど明るかった。
遠くのリーフまで行ってあまり遅くなると高床式の椰子の葉で葺いた浜小屋で朝を待つこともあった。
数ヶ月そんな生活をしている時に何とも魅力的な話を聞く事ができた。
ここヤップ島から貨物船が出ていて周辺の島々へ航海に出るというのだ。
定期航路のような立派なものではなく主な目的はココナッツの実を乾燥させた物を回収するためなのだそうだ。それに僅かの料金を払えば誰でも乗せてくれるとの事、周辺の島々の住人にとっては、
この船がココナッツの出荷によって島唯一の現金収入なのかも知れないし、
島と外と繋がる唯一のものかも知れない。甲板の上だが寝泊りは出来るし米と水を持参すれば自販も問題ないという 各島々には1時間しか滞在しないところもあれば半日もしくは1日滞在する事も、
約2週間で帰って来るようだ。 が時には3週間を過ぎる事もあるという。
なかなか魅力的な話ではないか! てな訳でその貨物船に乗る事にした。
クレーンが船尾についている、その小さな貨物船は住居としての機能は、ほとんどなく当然甲板に
雑魚寝の状態になるミクロネシアとはいえ夜の海を走る舟の上は寒く皆シーツに包まって震えながら朝を待つといった具合だ。
当然シャワーを浴びる贅沢など、できるはずもなく2日目にしてノミなのかシラミなのか体中痒く
なった、隣では、お互いのノミらしきものを取り合っているところを見ると私の体のかゆみは、
このせいなのかと容易に想像が出来た。不思議な事に時が来ると慣れるものだ。
目的の島が見えると小さなFRP船をクレーンで降ろし皆乗り込んで島に渡る。
乗組員は慌しく島中からココナッツを集める。島々の様子をただ見たいだけの私などは乗り遅れないよう乗り組み員の様子を細心の注意を払いつつ探検する。
この舟が次に出る時間は誰も分からない、だから小船が貨物船に向かう時にまた来るのか尋ね、
これで終わりだと分かると乗り込む 島では久しぶりの、お客に海亀を焼いたご馳走で出迎えてくれる。中には真っ黒く焦げているにも関わらず、まだ生きている亀もいる。
片手にタロイモ 片手に亀の肉 椰子の葉で拭いた家では亀の卵もご馳走してくれる。
亀の肉も癖がなく美味しいが感動的に美味しかったのは魚の燻製だった。
何の味付けもしていなかったと思うが魚に付いている塩加減がちょうど良かった。
ここの食事は 「自分のもの」 という概念がないような気がする。
めいめい食べているところに勝手に入っていって勝手に食べる。そこに食べるものが無くなって
それでも、まだ食べたいと思うと適当に食べているところを探し、空いている所にピョコンと座り
鍋に手を伸ばす。その行動を誰も、とがめるものもいないし振り向きもしない、
乗り込む前に米に水 ハンゴーにバーナーを持ち込んだが使ったのは初日と2日目ぐらいだったろうか?何も準備していない他の人達(地元に向かう住民たち)がむしろ珍しそうに私の炊事の
様子を見ていた。だが、そんな決まりなど無いに等しいような所でも私達が意外と思えるような
厳しい面もあった。私達が亀の肉を夢中で食べている時、子供が食べていない事に気ずいて
何故なんだろう? お腹がいっぱいなのだろうかと思っていたら、大人達が食べるまで待っていて
残った亀の甲羅を海水に付けてムシャぶりついていた。 ここは大人が偉いのだ。
何度か若者がおじいさんに怒鳴られているのを見た事がある。怒鳴られた若者はシャキとして
緊張していた。こうでなくちゃ そんな思いにさせられた。
船は幾つかの島を巡りヤップから一番遠いところに SATAWAL はあった。 後で調べたら、そこはヤップからはだいぶ離れていてトラック諸島の方が近かった。当時の日記に立ち寄った島の名前を書いていた。それによると
Yap ulithi fais sorol eauripik woleai ifelik fachalap elato lamotrek
SATAWAl lamotrek elato fachalap ifelik woleai eauipik sorol fais ulithi ngulu yap
と航海している。 当時どこかの島でおそらく、この外洋航海用の船を私は見ていたのだろう。
ひときわ大きな小屋に、どこの島でも見なかった大きな船があった。
それがチェチェメニ号のような外洋航海カヌーで、こんな小さな島にどうしてこんな船があるんだろうと思った事を覚えている。きっとそこが今思えばサタワルだったのだろう。この船の感想はそれだけだ。この船がそんな貴重な船とも知らずに・・・ 疲れたから今日の話はこれでおしまい。
また いつかヤップ島での生活も書きます。
モリ
冒険手帳 のブログ名について
・ 小学から中学にかけて冒険という名の本を見ると宝物にでもあり付いたかのように
読みあさっていた。 当時青森県の田舎には情報を手に入れられるものも限られていた。 そんな中冒険手帳という本に出くわした。 この本には火のお越し方やロープの結び方に始まり日本に生息
する獣の足跡やその伝統的な捕獲方法まで解説されていた。
私はこの本を野山を駆け回るためのバイブルとしてどこに行くにも携え、そして実践していた。
そのため本はボロボロとなり何度もテープで補強しながら大事に大事にしていた。
仕掛けを造る絵がまた何とも魅力的で、ただ見ているだけでも幸せだった。
何毎にも直ぐに無くしてしまう、だらしのない私がこのバイブル本だけは肌身離さずいつも持ち歩いていた。 冒険手帳 今では、残念ながら私の手元にはないが、この名を聞くたびに山々を駆け巡りイタチや野ウサギ リスやムササビ キジやトビを夢中になって捕まえていた頃を想い出す。
(今思えば残酷な事をしていたと思うが、)階上岳の山を越え朽ちた炭焼き小屋の横に大きな欅の木があった。ここに来た証としてナイフで一本の傷を付けていた。二桁になろうかという頃、
いつの間にか遠のいている。 今も環境やフィールドは変わっても、たいして変わらない事をしているような気がする。 冒険手帳 幾つになっても心を擽る、もしかしたら原点なのかも知れない。
・ サタワルの話
・ ヤップの話
・ サバニ旅の話
・ ウンチの話
・ サバニの話
・ 海想の話
・ 危険が一杯
・ 小笠原 母島の話
・ 八丈島の話
・ 神津島の話
サタワルの話
今 ハワイから日本に向けてホクレア号が航海している。
初めの話は、それにちなんでサタワル島の話しを、、 といっても実は、ほとんど記憶に残っていないと言ってもいいのですが、、、 ホクレア号がハワイから第一の目標に定めたサタワルは
ナイノア船長に航海術を教えたミクロネシアでは唯一航海術が残っている島で感謝を込めて、
この船をプレゼントする事だったようだ。 (偉いなー)
1975年 チェチェメニ号がサタワルから沖縄に向けて航海した話を私は最近になって知った。
その時から、どこかで聞いた事がある島だなーと思っていたら実は私は今から18年前の
1989年2月にこの島にたまたま行っていた。 当時の日記が残っていてそれを見ると確かに
SATAWAL とあった。 当時の話を記憶のままに書いてみよう。
1988年の冬ダイビングの助っ人にパラオに向かった。 当時私は沖縄でダイビングインストラクターをしていた。冬は暇なのでパラオでダイビングショップを経営する知り合いからチケットと宿は準備する条件で2週間だけ手伝っていた。 それが終わると周辺の島々へ、ふらふらと出かけていたのだ。 グアム サイパン マジェロ コスラエ トラック ポナペ など等 中でも当時のヤップ島は
まだまだ開発がされていない魅力的な島だった。
ホテルを経営するタマグさんと仲良くなって、いつの間にかタマグさんの家に住むようになっていた。 よくタマグさんとホテルの出し物に使うため夜の海をカヌーで漕ぎ出し網を刺して抱えきれないほどの魚を取っていた。 網を刺し汐待ちをして魚がかかるまで舟の上で数時間待つ間
私はよく素もぐりに講じた。 時には刺し網より採ることもあり漁に行く時は必ず私を誘うようになった。何度か付いた魚をめぐってサメと取り合いになった事もあった。
私を連れて行く事によって漁は倍になり、私は私で何より楽しいひと時であった。
海から見る島影は人工物は何一つなく微かな明かりさえもない。
月夜の晩は持って行った懐中電灯を使う必要がないほど明るかった。
遠くのリーフまで行ってあまり遅くなると高床式の椰子の葉で葺いた浜小屋で朝を待つこともあった。
数ヶ月そんな生活をしている時に何とも魅力的な話を聞く事ができた。
ここヤップ島から貨物船が出ていて周辺の島々へ航海に出るというのだ。
定期航路のような立派なものではなく主な目的はココナッツの実を乾燥させた物を回収するためなのだそうだ。それに僅かの料金を払えば誰でも乗せてくれるとの事、周辺の島々の住人にとっては、
この船がココナッツの出荷によって島唯一の現金収入なのかも知れないし、
島と外と繋がる唯一のものかも知れない。甲板の上だが寝泊りは出来るし米と水を持参すれば自販も問題ないという 各島々には1時間しか滞在しないところもあれば半日もしくは1日滞在する事も、
約2週間で帰って来るようだ。 が時には3週間を過ぎる事もあるという。
なかなか魅力的な話ではないか! てな訳でその貨物船に乗る事にした。
クレーンが船尾についている、その小さな貨物船は住居としての機能は、ほとんどなく当然甲板に
雑魚寝の状態になるミクロネシアとはいえ夜の海を走る舟の上は寒く皆シーツに包まって震えながら朝を待つといった具合だ。
当然シャワーを浴びる贅沢など、できるはずもなく2日目にしてノミなのかシラミなのか体中痒く
なった、隣では、お互いのノミらしきものを取り合っているところを見ると私の体のかゆみは、
このせいなのかと容易に想像が出来た。不思議な事に時が来ると慣れるものだ。
目的の島が見えると小さなFRP船をクレーンで降ろし皆乗り込んで島に渡る。
乗組員は慌しく島中からココナッツを集める。島々の様子をただ見たいだけの私などは乗り遅れないよう乗り組み員の様子を細心の注意を払いつつ探検する。
この舟が次に出る時間は誰も分からない、だから小船が貨物船に向かう時にまた来るのか尋ね、
これで終わりだと分かると乗り込む 島では久しぶりの、お客に海亀を焼いたご馳走で出迎えてくれる。中には真っ黒く焦げているにも関わらず、まだ生きている亀もいる。
片手にタロイモ 片手に亀の肉 椰子の葉で拭いた家では亀の卵もご馳走してくれる。
亀の肉も癖がなく美味しいが感動的に美味しかったのは魚の燻製だった。
何の味付けもしていなかったと思うが魚に付いている塩加減がちょうど良かった。
ここの食事は 「自分のもの」 という概念がないような気がする。
めいめい食べているところに勝手に入っていって勝手に食べる。そこに食べるものが無くなって
それでも、まだ食べたいと思うと適当に食べているところを探し、空いている所にピョコンと座り
鍋に手を伸ばす。その行動を誰も、とがめるものもいないし振り向きもしない、
乗り込む前に米に水 ハンゴーにバーナーを持ち込んだが使ったのは初日と2日目ぐらいだったろうか?何も準備していない他の人達(地元に向かう住民たち)がむしろ珍しそうに私の炊事の
様子を見ていた。だが、そんな決まりなど無いに等しいような所でも私達が意外と思えるような
厳しい面もあった。私達が亀の肉を夢中で食べている時、子供が食べていない事に気ずいて
何故なんだろう? お腹がいっぱいなのだろうかと思っていたら、大人達が食べるまで待っていて
残った亀の甲羅を海水に付けてムシャぶりついていた。 ここは大人が偉いのだ。
何度か若者がおじいさんに怒鳴られているのを見た事がある。怒鳴られた若者はシャキとして
緊張していた。こうでなくちゃ そんな思いにさせられた。
船は幾つかの島を巡りヤップから一番遠いところに SATAWAL はあった。 後で調べたら、そこはヤップからはだいぶ離れていてトラック諸島の方が近かった。当時の日記に立ち寄った島の名前を書いていた。それによると
Yap ulithi fais sorol eauripik woleai ifelik fachalap elato lamotrek
SATAWAl lamotrek elato fachalap ifelik woleai eauipik sorol fais ulithi ngulu yap
と航海している。 当時どこかの島でおそらく、この外洋航海用の船を私は見ていたのだろう。
ひときわ大きな小屋に、どこの島でも見なかった大きな船があった。
それがチェチェメニ号のような外洋航海カヌーで、こんな小さな島にどうしてこんな船があるんだろうと思った事を覚えている。きっとそこが今思えばサタワルだったのだろう。この船の感想はそれだけだ。この船がそんな貴重な船とも知らずに・・・ 疲れたから今日の話はこれでおしまい。
また いつかヤップ島での生活も書きます。
モリ



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